沢彦宗恩(たくげんそうおん)は、臨済宗妙心寺派の僧。沢彦宗恩の生年は不詳。
卍元師蛮の「延宝伝灯録」によると、若い頃は各地を行脚して、妙心寺東海派の泰秀宗韓の元に辿り着き、修行すると泰秀宗韓より印可を受けた。
妙心寺第一座となるが辞した後は美濃・大宝寺の住持となっていた。
その頃、吉法師(織田信長)の傅役を務めていた織田家家臣・平手政秀の依頼を受けて、清洲城に行き、沢彦宗恩が教育係となった。
織田信長が元服したあとは参謀として活躍。
父・織田信秀の葬儀の際に、織田信長は抹香を投げつけたが、これは沢彦宗恩がパフォーマンスとして提案したとも伝わる。
平手政秀が自刃すると、菩提を弔うために織田信長が建立した政秀寺の開山も務めている。
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織田信長が美濃を支配すると、稲葉山城下の「井ノ口」を改め、新たな地名にすることを進言。
中国・周の故事にならい沢彦の挙げた「岐山・岐陽・岐阜」の3つの候補より、岐阜が選ばれたとの説がある。
この他、織田信長の政策である「天下布武」も沢彦の進言によるとも言われる。
しかし、沢彦が唱えた「天下布武」は「春秋左氏伝」に記された”七徳の武を備えた者が天下を治める”ことに由来すると言われる。
京都・妙心寺第39世住持となったあとは、岐阜の瑞龍寺に住んだ。
1587年10月2日示寂。
1686年「円通無礙禅師」の号が下賜されている。
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